昨秋に西日本新聞から
「介護とロックについて書いてくれ」
との依頼があったんだが
書き終えた頃母親が末期癌であることが判明し
結局ポール・マッカートニーのコンサート・レビューに差し替えられたとゆーことがあった
せっかくだから幻となった原稿を紹介しておこう
介護とロックのビミョーな関係!?
僕がこの世に生を受けたのは1957年。
プレスリーが主演映画「監獄ロック」で同タイトルソングを唄って大ヒットした年だ。
母は大正が昭和に変わる年に鹿児島で生まれた。
俗にいう薩摩おごじょ、今年で88になる。
幸い認知症とは無縁だったが80過ぎて発症した癌で腎臓を一個と直腸を失った。
一人でベッドから起きるのも難儀していたにも関わらず施設に入るのを頑なに拒み続け、
自宅で人生を終える事を強く望んで現在に至る。
県内に住む僕の兄は頑なに反対したが僕は本人の希望通りにさせたいと思い、
ノートパソコンに仕事用のソフトを移して半ば休暇気分で帰省介護を始めたというわけだ。
2〜3ヶ月介護しては東京に戻り東京での仕事を片付けてはまたこっちに舞い戻るという生活はもう2年近くになる。
1月、小雪舞う博多に舞い降りた僕がまず最初にしたことは高校時代の友人と連絡をとることだった。
互いの親もよく知っていたし介護についても相談し易かろうと考えたわけだ(案の定見事に皆介護真っ只中だった)。
かくして介護友達、略してカイトモの誕生である。
正直なところ同居を始めた当初は「長いことないな・・」と8割方諦めていたんだが・・・
せめて今生の景色をその目に焼き付かせてあげようと
クルマの助手席に乗せ連れ出しているうちに徐々に歩けるようになった。
それに呼応して食欲が増し寝付も良くなった。
3ヶ月で体重は3キロも増え、喋るのも億劫そうだった声は大きくなり張りも出てきた。
こうなると本人も目標が出来たのだろう、雨が降ろうがヤリが降ろうが
「車出せ!買い物に行くばい」
とスーパー通いが日課となり手押し車を相棒にだだっ広い売り場を歩き回れるまでに回復。
そうなると今度は身支度や化粧が気になってくるようで
「おい、今日は化粧品買いにコスモスとゆめタウンに行くばい」
という具合にあれよあれよと言う間に元気になってしまった。
かような結果になったのはただただ幸運だったとしか言いようがない。
考え得る要因を強いて幾つか挙げるならば、
第一に当の本人が全くボケていなかったこと。
二つ目にある程度のまとまった期間介護同居出来る親族(僕だ)がいたこと。
第三に昔の仲間達が様々な場面で協力してくれたこと。
そしてもう一つ、以上3つのお陰で僕も母も介護が全く苦にならなかったこと、だ。
止まっていた時計の針がまた動き始めた。
追記:認知症になった親を施設に預けたことに罪悪感を感じているカイトモ、意外と多い。
経済的に可能なのであればプロに任せたほうがお互いにとっていいと僕は思っている。
また嫁に介護を押付けて良い結果が得られるのは希であるように思える。
(「鬼の夫とは暮せても仏の姑とは暮せない」は明言ですね)
最後に、Rockの命題が時代を映すことにあるのなら
今まさに介護はピッタリのテーマだと思いません?
仕事と子育てと介護を押し付けられた40代主婦の気持ちを代弁する女性ロッカーがいたら是非プロデュースしたいなぁ。
※以上の原稿は2013年11月に書かれたものです